スパゲッティ

お湯が沸騰した寸胴鍋にセモリナ100%のスパゲティを150グラム投入、塩をひと掴み加え、タイマーを起動させる。少し太めの麺なので茹で上がるには15分かかるとパッケージには書かれている。僕は実際には13分30秒を目安にしている。13分では芯が残り過ぎ、14分では腰が無くなる。麺が茹で上がるまで、前から気になっていたキッチン横の穴を覗いてみることにした。

その穴を覗いてみると、向こう側では教授が学生達に授業をしていた。

黒板にはこう書かれていた。

『新機軸の断熱材とその物質がもたらす世界均衡』

難しい話のようだったが、スパゲティが茹で上がるまでどうせすることも無いし、僕は穴を覗き続けることにした。

教授は品の良い薄いブルーのシャツにパープル地にホワイトのドットで仕上がったネクタイを合わせ、その上から上質のジャケットを羽織り、そして半ズボンだった。

そういえばこの前、テレビで石田純一が、

『日本が3月の時、南半球のニュージーランドは何月?』

との問題に、『8月』と答えていて、あー、この人は本当の馬鹿なんだ、と思ったが、この教授はそれとは種類の違う馬鹿なのだ。教授は去年まではザリガニの研究に勤しんでいた。それが今では断熱材をテーマに教壇に立っている。

教授はその新機軸の断熱材について、休暇で訪れた香港で発見したらしい。それが実用化されれば、自分の半生が無駄では無かった証明となると息巻いていた。息巻いているのに半ズボンというのが妙に滑稽だった。

ひとつ人より力持ち
ふたつ故郷あとにして
みっつ・・・
みっつ?
みっつはなんだっけ・・・・

教授は滞在先のペニンシュラホテルの浴室で、このようにみっつに続くのは何かを考える延長線上でこの断熱材を思いついたと自慢げに語っていた。すると遅刻してきた生徒が教室に入ってきて『すいません!』と教授に平手打ちをして席についた。教授の付け髭が宙に舞う。最前列に座っていた生徒がそれを拾おうとして席を立つと、

『後でにしなさい』

とそれを制した。席に戻ろうとするその生徒がこちらを向いた。それはかつて僕の彼女だった女性だ。僕よりひとつ年上で、背の小ささと胸の大きさのアンバランスさが魅力的で、とてもかわいらしい女性だった。でも、ある日、表参道のクワアイナでコーヒーを飲んでいる時、その子の顔が研ナオコに見えてしまった。正確言うと、今はかわいいけど、将来的に研ナオコ顔になるのは必至、と気付いてしまった。だから別れた。ベリーショートだった髪の毛も、肩まで届く程伸びていて新しい彼女の魅力に気付かされた。

新機軸の断熱材については、従来の文字通り熱を経つというものから、熱を吸収させるという発想が根底にあるそうで、それに適している純粋な物質はゼグマ星の第4大陸にあるビサスボ湖底でしか採取できないとのことだったが、発泡スチロールを細かく砕き、そこに緑の絵の具を混ぜることでも代用が可能とのことで、あとは配合量のバランスだけみたいだ。

そうそう、教授の半ズボンはデニム地だ。

新機軸の断熱材と世界均衡の繋がりについて、僕はすごく興味があったが、スパゲティが茹で上がったようだ。世界均衡よりもどちらかと言うと僕はアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノが大切で、とにかく僕はお腹が空いている。今度もし、どこかで彼女に会うことができたら、授業の続きを聞けばいい。

僕は穴から目を離した。

タイマーに目をやると13分14秒が経過していた。